田中げんごろう
「自分と他分」WEB版
私とは何か

田中げんごろうは、「宗教」にはいっさい属しておりません。
自然の中を歩き、調査し、感じ、「このつらい世の中は何なのか」を命題に、人と社会と自然の関係について研究し発表した「個人」です。

 よって今後も「宗教」や「宗教じみた集団」とは迎合いたしませんし、仲間にもなりません。
この「自分と他分」という本とこのWEB情報は「個人」から「個人」に向けての情報です。


自然から学ぶ
 生まれてきておそらく一度は疑問に感じる自分(私)の存在。
「私は何?」「私はなぜ生きている?」「私は何のために生きている?」「私は望んて生まれてきたわけではないのに、不安と苦しみが多すぎ・・、これじゃただの罰ゲームだろ!」と。

 だから「とりあえず生きる」ために、はっきりした目標もないのに、「世間体を気にしながら」学校に通い、社会に出て、家庭を持つこともある。
そして、安心を買うために「お金持ち」に執着し、実現すれば「勝ち組で幸せ」と自分をなだめる。

 だけど「はっきりとしない、もやもやした自分」に腹が立ち、ふっと、図書館で哲学や思想、偉人の本を手にとってみるけれど、内容は「変にむずかしいもの」や、ある特定環境での成功者としての処世術の披露なので、すっきりしないことが多い。

 しかし、自然から私たちが生きる「生命世界の根源」を学ぶと、「私」の存在は「かなり明確に」知ることができるから、興味がある人は説明動画も見てほしい。
 「かなり」とは、最終的には、この生命世界の根源は「知ることができない」永遠性があるからです。


私たちの生命世界は意識の世界
「宇宙→銀河→地球→人類」と生命が入れ子(マトリョーシカ構造)になっている、永遠性を秘めた世界

 いきなりぶっ飛んだ話になりますが、
私たちのいる「生命世界」の根源は「意識の世界」です。
ここを押さえれば、「私」に関する事項はかなり、論理的に明確になります。

「私とは何か」は、動画にて解説していますので、ぜひご覧ください。

 思考のカギは「地球生命体・ガイア」を肯定することにあります。それは、私たち人類が地球体内に生きる一生命(細胞)としてあることを「客観的」「俯瞰的」に捉え思考することです。

(「地球生命体・ガイア」の肯定は、まだ一般的ではありません。
「地球が一つの生命」ならば、から得られるさまざまな合点事項が「状況証拠」として確証するものです)


「私」とは

  「私」とは生まれてきた個体に「意識が宿り」、その個体がを自分を認識するもの(言葉)が「私」です。
@根本にある「意識の種」はまっさらなものです。→ようするに、血(DNA)による意識の優生はありません。
Aまず、意識は宿った個体に規定されます。
Bそして個体が成長する際の「意識環境」によって、さまざまな性格を持つ意識(様々な私)に成長します。

 要するに人間であろうと昆虫であろうと植物であろうと、意識の「種子」はみな同じで、宿ったと同時にまずは違いが規定されます。
偶然に人間という個体に宿った意識は「知的な意識に成長する」性質をもつだけです。

その後、生まれた意識個体(新生児)は、育てる「親」と、育つ社会環境の「意識」に「塗られて」いきます。
「子は親の鏡」と言われ所以です。
親が優生思想の意識をもっていれば、育てられる子供もその意識を塗られます。優生思想の連綿は「思い込み」による洗脳の連綿でしかありません。

C「私」は、自分という個体だけに紐づいたものです。
D「私」は、その個体が成長する過程で「様々な意識環境」によって成長し、千差万別、唯一無二のもの(性格や性質)になります。他人はすべて違う「私」です。
→この基本を押さえた上にこそ、人間同士で形成する社会での「自発的な協調行動」が有用になります。逆に「強制的な協調」は「全体主義」に向かいます。人の他人との協調行動は「自発的〜強制的」のグラテーションの中にあり、どちらにも行き過ぎない是々非々である「調和というバランス」がベストです。

「様々な意識環境」から育つ性格の例をあげると、
・親のみならず、他人からも愛情いっぱいの中で育った「意識」は「他人への愛情豊か」な性格となる確率が高い。
・親から虐げられ、他人からイジメられて育った「意識」は「他人への虐げ」を気にしない性格となる確率が高い。
・世間から差別を受けて育った「意識」は、社会や人々に対して「報復的」な性格となる確率が高い。
などです。


生きる希望と目的

「生きる希望も目的もみつからない苦しさ」
私自身も苦しみ悩んだ「青春期症候群」について。

 「それならどう生きたらよいのか?」という問いについては、こればかりは「個」に結びついた、それぞれの「私」による案件ですから基本的に親であろうと「他人」が介入できるものではありません。
 ただ言える事は、私たちの世界の「生きる」意味は、「意識(心)の成長=進化」が命題です。
そして、その成長を促しているエネルギーが「闇・恐怖(苦しみ)」と思われます。
ただし、その闇(苦しみ)から逃れるために、限度を超えた「お金の獲得だけ」「自分だけ」などを求めると(個人や社会がその意識の成長を止める)、さらに闇に飲まれ苦しむ仕組みになっています。

 現在、「日本社会で生きる苦しみ」が悪化していく状況は、この世界が望む新しい発想や試み、若者の力を、権力者、老人が「お金」の力で「強欲利権」を死守するために、長い間「意識の成長」とその「機会」を抑え込み過ぎたからです。
 そして、それは私たち庶民が政治や経済権力に目を向けない「小さな怠惰の積み重ね」により、行き過ぎた権力者を「放置・成長」させてきたからです。これは「権力者と庶民の合作」でもあります。

 今、まさに日本社会の様子は、お金や労働機会を握る、政治経済権力者の力にねじ伏せられた庶民が、その前に「正座し、尻尾をふり、忖度」するという半奴隷状態の、「限度を超え、バランスを失ったいびつなもの」になっています。
 ただ短絡的に勘違いしないで頂きたいのは、私たちの世界は皆、誰でも善悪を持ち、「煩悩」を持っていますから、自分中心の「忖度や態度」はすべて悪いわけではありません。 この世界は光と闇の「調和とバランス」を進化させるものなので「いきすぎ・やり過ぎ」に注意が必要なのです。

 「悪」とされるのは「進化しない・する気がない」「後進性」「時間的な長い停滞」「いき過ぎ、やり過ぎ」「限度を超える」「バランスを崩す」ものです。
 「社会」は選挙によって庶民が権力を与えた者が「運営」するものです。
だから社会を変えるには、まずは、それを選定する「私たち自身の意識が成長・進化する」必要があります。
社会を変える「リーダー」は現れますが、超権力の「正義の味方は」決して現れません。

 そんな娑婆に生きている「個」の唯一の仲間(意識)は「自然」です。
個人は「地域社会〜地域風土〜地球自然生命〜宇宙生命」にそれぞれが「つながっている」ものですから、そのつながりを大切にすることが、目標や生き方「アイデンティティ」を形成する上で重要になると思います。
 いうなれば「金銭的な人との関係」はバランス良く、おそらく今、強く必要とされるのは、「意識的な人でないものとの関係」を多層かつ多く持ち、自分の意識を成長させるということと思います。
 それは「郷土愛」など、自分と関わりのある風土、自然生命の存在を感じ「大切にする」というところから始まります。

 人と人との「仲」はお互いの意識の状況の産物です。状況が変わればすぐに変わるものです。 「結婚、離婚」は言うまでもなく、「昨日までの親友が今日から敵」などどいうことは良くあります。
 そんな中で私たちが「仲良くなれる」共通土台があります。それが自然生命です。私たちすべての人がつながっている自然生命を大切にすることは、すべての人の大切につながります。その意識行動の一つとして「環境保護」があります。

 福島原発事故は多大な環境破壊を起こし、今もなお収拾がつかず海洋汚染を続けています。人類か管理する技術を持たない「原発」は「やり過ぎ」で「発電暴走族」です。だから、「脱原発」はしごくあたりまえと思います。


現実をどう考える
 しかし、現実に社会で起こっていることを見るとどうでしょう。
「増税」「年金減額・支給期後退」から始まり、「災害救助の不本気度」「原発汚染水放出」「原発推進」「ワクチンのDNA混入・レプリコンワクチン問題」動画前編 動画後編・・と、まさに人類淘汰劇場。人類の中で淘汰役(政治経済権力者層)と淘汰され役(市民層)の配役で演じられています。

 この状況を「政治・経済権力者層」と「市民層」を「経済的な天秤」にかけて見れば、「明らかに」政治経済権力者層に大きく傾いているアンバランス状態です。これが「現時点」の客観的な基本視点です。
 日本ではこの30年近く、政治経済権力者層は、大企業富裕層優遇、市民層冷遇政策を続けています。「庶民の緑」は「富裕層」により刈りつくされ、日本社会は茶色い荒野となりました。だから、国は積極財政で経済的「バランスが取れるまでは」すぐに水と肥料を撒き育てるのが先決です。富裕層が取り仕切る政府、財務省は、それを否定するために「財政破綻」という「恐喝」や「屁理屈経済論」で、刈り取るどころか、根っこまでも掘り起こそうとしています。
 重ねて例えるなら、カラカラに乾いた土の上で、枯れそうになっている草木を目の前にして、「お前らはまだ、根っこに蓄えているから、水は撒かない!」、「逆にもっと吸い取ってやる」と言っているわけです。
「財政規律」を持ち出して、市民層への財政支出をこばむのなら、政治経済権力者層への優遇措置の分を市民層へ移すべきです。

 しかし、現状は最悪。この現状をどう見たら良いのか。
客観的には、「人類と言う木」、「日本という木」が「死に向かって徐々に枯れ腐っていく過程の出来事」と見れば「自然」でおかしなことではありません。その渦中にある人類だけが右往左往しているだけで、危機を感じない人はもはや「認知麻薬」の中と思われ、「苦しい」と感じた人だけが危機感を持っているだけです。

 危機を「感じる人・感じない人」物事を深く「考える人・考えない人・考えたくない人」「知ろうとする人・知りたくない人・知らない人」「他人を批判する人・擁護する人」「現状を批判する人・擁護する人」個々の意識はさまざまです。

 この意識の多様性こそ「この世界の醍醐味」です。この多様性が芸術や他人への愛情、社会成長に合致した時は、WIN WINに進み、とても素晴らしいものを生みます。しかし、逆ベクトルの「崩壊期」に合致するとBAD BADを生み出します。
 このBAD BAD状況は今、政治、経済、メディアの状況は言うまでもなく、市民層の「意見の書き込み」でさえそのありさまで、それに異を唱える意見がでれば、すぐに「血祭」に上げられる状態です。
 まさに、「金持ち優生、弱者切り捨て型で、崩壊現状社会を擁護する」人気インフルエンサーは、腐りつつある木を「餌にする」腐食菌の花、「キノコ」のようです。そこから放出される胞子(認知麻薬)はさらに腐食を拡大させています。

 レプリコンワクチン問題はまさに人類淘汰劇場の総決算的な要素があります。
可能性が否定できない、人のDNAを改変させる空気感染型の人工ウィルスモドキは、淘汰役の権力者層でさえ危険にさらし、「勝ち組」はなく「すべてが負け組」になる可能性のある危険なものです。
 私たち人類は淘汰役と淘汰され役の間でいがみ合いながらも、実は「勝者はなく全部が淘汰されてしまう」「神(摂理)の手のひらで踊らされているだけ」ということを客観的に認識することが肝心です。
極端に例えていうなら、憎しみにかられた殺し合いの戦争をしている最中に、空から「もっとやれ!もっとやれ! お前ら、憎しみ合い、殺し合ってなくなれ!」と神の声がしてくる。敵も味方もこの声を聴いて、「ばからしい」、「敵は神であり、乗り越えるものは神である」と悟り、「神(摂理)」に逆らい、人類淘汰劇場を終わらせ、勝ち組も負け組もない、人類がなるべく幸せに生き続ける新しい社会を築くことが「この世の進化」として求められていると確信します。